仕事の目的

『何のための仕事だろう』

サラリーマンの仕事の目的の一つは、社長の資本を合理的に奪うことだと思う。また、社会貢献も一つの目的だ。ただ、目的がこの2つだけだと心が混沌する。それでは、サラリーマンは何を拠り所に仕事をしたらいいんだろう。

『現実のモヤモヤ』

仕事の効率化という議題で、指摘され仕合う日々。この泥仕合に納得して生きる理由はなんだろう。なんだか知らないけれど、その会社に所属しているだけで、ものが入手できる便利なお金が分配されること、たまに指導する側になり優越感が得られること、自分の成長から自尊心を養えること。

様々なことをして来たけど、何もかもが中途半端で、自分の人生を注ぎ込むほどの情熱は持てなかった。周りの人は楽しいはずの試行錯誤が、僕には雲をつかむ行動のようで、脳が困惑する。

地方の大企業の1人としての無力さからくる劣等感もあって簡単に仕事を好きになれないこともあり、この試合から降りたいと、くどくど思い続けてる。

帰属意識

偶然、社長と話す機会があった。。入社してから一度も見たことも話したこともない社長。連結会社の社員合わせて数万人の社長なのだから、極稀な機会だろうけど、高揚感はなかった。

僕の帰属意識が少ないからかもしれない。忠誠心がないから、利己的思考だから、そうかもしれない。お金を安定的に分けてくださってありがとうございましたと思うべきものかもしれない。労働を通じて社会に寄与できたことを誇りに思い、忠義に報いるのが本筋かもしれない。

仕事と向き合ってない怠け者の言い訳のようで、数十年も勤めて(搾取して)その思考はなんだと社長に激怒されてもおかしくない考えかもしれないけど、自分の可能性を具現化できない会社に合わせて、無理に自分を抑制していると思えるこの違和感の根源が、サラリーマンの目的にそぐわない自分の欠陥だと思える。

『どうしよう』

カウンセリング、ビジネス本、セミナー、自分の欠陥を強制する手立ては講じているはずだけれど、モヤモヤは晴れない。自営しない限りは晴れないかもしれない。誰かの資本を略奪している意識があり、勤めあげるという行為に正当性を感じないからだ。

だから、立ち止まって考えよう。今までは無かったことにして、これからも同じ事をしたいか。したくないなら、どうやれば逃げれるか、変われるか。

仕事は甘くない、苦渋の経験こそ輝かしい。自ら火に飛び込んでこそ男、そうしないと自尊心を得ることができない時代ではずっと前からないはず。

でも、そうしてしまい勝ちなのは自分の魅力が自分で分からないから。自分を認め、人生を作り込む機会を作り、自分を変えよう。

子育て時に欲しかったもの

『子育て』

子育てを始めて9年。まだまだ成人まで11年なので、これからも刺激ある生活があると思うけど、これまでも難しいと思うことがたくさんあった。
もちろん子供そのものに対しての経験不足からくる問題の火消しあったけど、一番は頼れる相手がいない孤独感、不安、体力の疲れだったと思う。

『周りの助けの限界』

僕は結婚後少しして出向となった。選択肢の無い出向。ほどなく子供が生まれ、家族3人で何も知らない土地で暮らすことになった。当時はインターネットを引いてなかったし、行政に頼るしかなかったので、常に親が子供をみるしかなかった。当たり前の事かも知れないけれど、祖父母もいない、友達も預ける相手もいない状況は辛く、特に子供と接する機会の多かった妻を今でも、あの出向の判断に否定的だ。

一方、保育所に預ける選択肢もあったけど、土地勘のない場所で仕事を始める勇気もなかったし、パートで保育料以上の収入を得る可能性も無かったので保育所の入所はあきらめた。

こんな感じの中、出向が終わり、島根に戻ったけれど平日は仕事、土日は家事と子供の世話で人生を振り返る余裕もなかった。

その上、他の事となると疲弊していた。

もしかしたら他の手段を選択しもっと楽しく子育てができたかもしれないけど、分からなかった。周りの支援なんて届かない領域が不安を助長させていた。

『子供の休み』

自分が幼稚園児や小学生の時は全く分からなかったが、幼稚園や小学校は勤め人に厳しい。夏休み、行事の振り替え休日。平日を休みにされると子供の世話人がなく、会社を休むことになる。公的機関は家庭の受け皿でないのは分かるけど、大きな負担だった。

『欲しかったもの』

何があれば楽になれたのかというと、たまの休みかな、自分のために使える時間が欲しかったと思う。また、夫婦で話し合う時間が必要だったと思う。

実家の一昔前の考え方も障害となった。古い考え方は、お構いなしに依存を求める。頼れる相手が欲しかったと思う。

『これからは』

子供も少しずつ大きくなってきたけど、夫婦の話し合いや息抜きとして、誰かを頼ることができたら、力強い。今は子供の塾を大人の息抜きの時間として利用している。もっと手軽に、問題を抱え込む必要のないサービスが今も欲しい。そのサービスがあれば、子供を育てたい家族も増えると思う。


定時で帰るには

『退社のタイミング』

今日も定時に帰宅してみる。なるべく早く帰ってみて、先月は残業10時間。まだ多いのかもしれないけれど、この半年の平均残業は10時間。

今日は、仕事の生産性が悪く、残りたい気持ちが沸き上がったけど、雨が降っていたので退社した。傘持ってないから、しょうがない。自分に言い聞かせて。家で生産性の改善方法と計画を冷静に練り直せばいい。

職場では当たり前だけど、定時になっても誰も帰ろうとしない。定時帰宅=病気?大丈夫?となる職場。仕事量に対し貴重な人生の時間を捻出し残業し続けるのは、多大な機会損失だと思う。だから、残業なんてやめればいい。

『生産性』

早く帰るのだから、定時内の仕事を濃密にしないと成果は出ない。これがまだできていない。だから、帰宅後こころがモヤモヤする。このまま続けて成果が出るだろうか。こんなモヤモヤが続くと心が疲れる。だって時間は戻らないのだから。

ここはやはり生産性を上げれるよう自分の時間の使い方を分析するしかない。これが続かない。細切れの時間を活用する計画がなく、仕事に緊張感がないからだ。

相手都合や突発的問題でタスクの計画が乱れ、成果の見通しが変わった場合、計画を変更し進めればいい。

『成果』

でも成果とは、そんなものではないだろう。イノベーションを会社は求めてるし、僕もイノベーションを起こしたい。空いた時間はイノベーションを企画すればいい。上司や周りのためではなく、自分の信念のため。当たり前だけど、市場に評価される人、誰にでもできないことや視点で成果を出すことが、会社で重宝される人生なのだろう。何もしないよりは、行動を繰り返してみるしかない。行動あるのみ。最初の一歩がでないだけど。

『ネガティブ脱出』

今は残念、生産性と成果の両輪を回すことができていない。明確なのは同僚の成果に焦り、心がざわつく日々。どうしてもネガティブになってしまう。開き直って、生産性を上げる努力をするしかない。だって今までもだらだらと残業して、結果として家庭をないがしろにしてきた。どうしても「金のためには身を粉にして働く」という自己肯定的謎美学を振りかざし、人生を棒に振っていた。

だから、自分の人生は自分で作るという当たり前の意識と、古代の思考から離脱し、もっと楽しく生きていこうと思う。

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

島根の魅力を伝えたい

『距離感以上の疲労感』

先日島根から福井に出張で移動した。特急やくも→新幹線のぞみ→特急サンダーバード。12:30に出雲を出発し、福井に18:30につくと言う6時間の長丁場。出雲空港と繋がる空港は、東京、大阪、福岡、名古屋(小牧)、静岡、仙台、隠岐(島根)のようで、それらの沿線に住んでいない方は、電車か車などを利用して、島根に向かわれるはず。ツアーなどで観光バスを利用する方も多いと思うので、各々で疲労感は違うと思うけど、僕は電車移動でもうろうとした。個人の体調によるのかもしれないけれど、目をつむると脳が揺れるようで、ふらついた。
特急やくもの洗礼だ。こうなると電車移動はお勧めできない。

県外から島根に来て欲しいのだけど、余程の魅力が無い限りは、電車で行きたいとは思わないんじゃないんだろうか。僕が特急やくもに乗るのを躊躇するのだから。

『何が悪い』

先の特急やくもの乗り心地や他県から移動時間が、島根に来るリピーターや新規顧客を呼び込む足かせになっているなら、交通網を整備するのが、重要課題。

例えば、福井県は関西圏に近いし、北陸新幹線が停まる予定となっている。なんだかこれだけでも島根県は太刀打ちできない感じが否めないのだけど、すでに交通網が整備されている四国四県が栄えているのだろうか。四国には三つ橋がある。広島、岡山、関西と繋がっており、四国四県はそれぞれで魅力ある県だ。でも、島根の僕は近いから行きたいとはならない。

高速道路が無料の期間があったけど、あの時の利用者のうち、どれだけの人が島根のリピーターとなってくれているだろうか。

島根の魅力を市場を意識したものに変化し続ければ、交通網整備の一辺倒の改善でない、新たな島根を伝え、島根独自で栄えることができると思う。

『どうやって島根に振り向いてもらうか』

島根は金、人がない。島根の街はまだ人がいるかもしれない。でも、貯蓄の風土が浸透していて、旧来型で保守的な社会の島根。僕が東京ビッグサイト(東京の人からすれば何も無いところ)で、都会にたまげて恐ろしくなったように、都市部から島根を想像し、自発的に行ってみたい、住んでみたいと思う人なんて、世界にいるのだろうか。

多種多様な価値観の受け皿になればいいのだけど、例えばニッチな世界のニーズになれないか。
でも、受け止める側の思考が柔軟でなくちゃ。僕も心が偏っている。SNSだってほんの最近で、時代のながれに疎い。
思考も一昔前だ。

だから、世間や市場に合わせた思考にみんながなるのはできないけど、僕だけでも変わろう。
移住したい人や観光したい人に毛嫌いされないようにしたいと思う。